💅 昭和の音楽史を代表する作曲家・古関裕而 こせきゆうじ 氏と妻で歌手としても活躍した金子 きんこ 氏をモデルに音楽とともに生きた夫婦の物語を描きます。 1964(昭和39)年開催の東京五輪で、入場曲 『オリンピックマーチ』を手がけたことがその集大成となりました。 古関はその文面にほだされ、二人の文通が始まります。
9👇 戦後徐々に復活してきたスポーツを音楽で支えたのも古関裕而の曲でした。 その目的のひとつが、ほかでもない、同地に住む松子夫妻に会うことでした。 音楽好きの父親が珍しい蓄音機を購入して、仕事の合間にレーコードを聞いていたことから、古関裕而は音楽を聞きながら絵を描く日々を送った。
8🤚 すでに日中戦争ははじまっていましたが、「そこまで拡大することはあるまい」との期待のなかでの船出でした。 1944年「」(作詞:サトウハチロー、歌:日蓄合唱団、演奏:大東亜交響楽団、松竹軽音楽団)• 夏以降、出生地などで「」入りを応援する動きが活発になっている。
14⌛ 特技がアイスホッケー、スキーというのは、北国出身だな、と感じです。
😋 そこで古関裕而は周囲から促され、妻のためにオペラ3作『朱金昭』『トウランドット』『チガニの星』を作曲します。 ギターという特技があり、モデルの古賀政男を思わせます。
🐲 1936年「浜は九十九里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)• 会社員を退職後、祖父の屋号に因んだ女性2人との音楽ユニット「喜多三」を主宰して、伴奏を担当。 1942年「空の軍神」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 高校野球に興味がない人でも、何となく覚えている歌ですね。
11😇 昭和54年に夫・古関裕而が福島市の名誉市民の第1号に選ばれ、古関金子も推戴式に和服で出席したが、昭和55年6月に開かれた古関裕而の作曲家50年を祝う会には、入院中で出席できなかった。 戦後 戦後の昭和21年5月26日に日本初の国際的オペラ歌手・三浦環が死去すると、古関金子は尊敬する三浦環の意思を引き継ぎ、声楽の勉強を再開した。 古関夫妻は満洲・関東州に旅行に行きます。
⚒ この時期、歌詞・野村俊夫、作曲・古関裕而、歌・伊藤久男で手がけた 『暁に祈る(1940)』も大ヒットします。 もし子供がいなかったとしたら、自身が経営する川俣銀行で働いていた甥・古関裕而がそのまま跡取りになってくれたら都合は良かったのかもしれません。
🐾 作曲家の名前は知らなくとも、誰もが一度は耳にしたことがある曲ばかり。 古関裕而の人生は面白いから楽しみ。 1961年「」(作詞:、、、歌:)• 特撮映画だが歌謡ショーの味わいもある映画なので古関さんのメロディはぴったりだ。
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