👣 1340年代後半になると、ばさら者の被害者から相談を受けることの多く、自身もばさら嫌いだった足利直義との関係が悪化し、観応の擾乱が勃発。 関連項目 [ ]• 貴族やに対して協調的であった直義派の有力武将、すらも興福寺の荘園横領によって、を担ぎ込まれて強訴された実例がある。
👀 幕府の軍事体制からすれば、越前は斯波、美濃は土岐、和泉は細川といった守護が、それぞれの国で敵軍を撃破していく任務を負っているのですが、それでは対応できずに撃破され、京都が敵の脅威にさらされる危険が生じたときに、幕府は師直らを長とする直轄軍団を防衛戦に投入したのでした。 観応元:正平5年(1350)10月末、九州に逃れていたを討伐するために尊氏とともに出征したが、南朝と和睦して再起した直義が京都に向けて進撃しているとの報を受けて備前国より反転、翌観応2:正平6年(1351)1月には京都で直義党諸将の軍勢と戦うも利なく()、丹波国を経て播磨国へと退き、月末には山陰地方の戦線を突破してきた師泰と合流を果たすが、2月の摂津国打出浜の合戦で足利直義勢と戦って敗れた。 のち、三代将軍を補佐したによって、執事と引付頭人は統合されて管領となり、師直が築き上げた執事制度は管領制度に引き継がれた。
7❤ 尊氏直属の親衛隊長としてはもちろんですが、各地で起こる戦いに 不利になると尊氏はいつも高師直か、その弟の高師泰(こうのもろやす)を頼りました。
14🤙 まず、師直・師泰が用兵・作戦に当たって、寺院や神社などの精神的な権威をおそれなかったことから、自由な作戦行動をとることができたことがあげられます。 例えば、『太平記』が語る逸話では、師泰は東山に山荘を建設しようとして、その地にあったの墓所を掘り返し、これに対してが異議を唱えると、門跡(総長)の(皇子)の寵童(ちょうどう、愛人の少年)に命じて在登を殺害させた、という。 それにより翌年、におけるの奉行にと共に任じられた。
20🖕 師重 もろしげ の子。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。
5🤚 しかし、その後も恋文を送り続けるも一向に返事はなし。 のでは、師直は雑訴決断所()職員として登用され、や審議の実務経験を積んだ。 例えば、師直がの妻に横恋慕し、恋文を『』の作者であるに書かせ、これを送ったが拒絶され、怒った師直が高貞に謀反の罪を着せ、塩冶一族が討伐され終焉を迎えるまでが描かれている。
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