👍 風土記には 揖保 ( いぼ )郡の処に記載されてあるが印南の方にも同様の伝説があったものらしい。 言葉などいくらか心がこもっていて、 「語らはば なぐさむことも ありやせむ 言ふかひなくは 思はざらなむ (話し合えたら心が慰められることもあるでしょう わたしでは話相手にもならないと思わないでください) しんみりとしたお話を申し上げたいので、今日の夕暮れはいかがですか」 とおっしゃってきたので、 「なぐさむと 聞けば語らま ほしけれど 身の憂きことぞ 言ふかひもなき (心が慰められると聞くと 話し合いたいのですが わたしの辛さは 話し合ったところで どうしようもないのです) 『生ひたる蘆 (何事も 言わはれざりけり 身の憂きは生ひたる蘆の ねのみ泣かれて/何事も口では言えないわたしの辛さは ただもう泣くばかりで[古今六帖。
6👐 結句の「隠さふべしや」の「や」は強い反語で、「隠すべきであるか、決して隠すべきでは無い」ということになる。 「 味酒 ( うまざけ )三輪の山、 青丹 ( あをに )よし奈良の山の、山のまにい隠るまで、道の 隈 ( くま )い 積 ( つも )るまでに、 委 ( つばら )にも見つつ行かむを、しばしばも 見放 ( みさ )けむ山を、心なく雲の、 隠 ( かく )さふべしや」という長歌の反歌である。 かつみ刈 か)るころもやや近 ちこ うなれば、いづれの草を花かつみとはいふぞと、人々に尋(たず)ねはべれども、さらに知 し)る人なし。
😛 間人連老の作だとする説は、題詞に「御歌」となくしてただ「歌」とあるがためだというのであるが、これは 編輯 ( へんしゅう )当時既に「御」を脱していたのであろう。 わたしは大水を見に行きました。 併し三山の歌とせずに、同一作者が印南野海浜あたりで御作りになった叙景の歌と 看做 ( みな )せば解釈が出来るのである。
⚐ 第三句の字余りなどでもその 破綻 ( はたん )を来さない微妙な点と、「風を時じみ」の如く 圧搾 ( あっさく )した云い方と、結句の「つ」止めと、そういうものが相待って 綜合 ( そうごう )的な古調を成就しているところを学ぶべきである。 それだけの余裕を私は本書のなかに保留して置いた。 「ひたぶるに 待つとも言はば やすらはで 行くべきものを 君が家路に (ひたすら待っていると言ってくださったら ためらうことなく行くのに あなたの家へ) わたしの気持ちをいい加減に思っていらっしゃるのが辛いです」 と書いてあるので、 「いいえ、いい加減だなんて。
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