🐲 大国主の子のコトシロヌシを祭る美保神社、タケミナカタを祭る諏訪大社などは左末右本です。 それほどまでに早良親王の怨霊とは恐ろしいものだったのでしょう。 しかし私は、藤原不比等・光明子親子が長屋王の怨霊を恐れた可能性はかなり高いと思うのです。
😘 つまり私は草壁・文武と、青年皇族が続けて若死にしたのは大津のタタリと考えた当時の天皇(元明天皇?)が、大津への恐れと鎮魂のために、それまで放っておいた大津の遺骸を二上山に移したのではないか、と思うのです。 どうして、崇徳天皇は日本三大怨霊の一人に数えられるようになったのでしょうか。
2⚠ これだけの期間があれば、その考えは中国より伝わって来た可能性はかなり高いとい思われます。 流罪になる途中に無実を訴えながら絶食して亡くなったそうですが、その後皇族を中心に不幸が次々と襲った為、怨霊を恐れた桓武天皇は 『崇道天皇』の号をおくり、また怨霊に悩まされ、平安京への遷都を早めることにもなったそうです。
14🐾 (崇徳上皇の怨霊 出典:) 三大怨霊の次点候補 「三大怨霊」といわれますが、負けてないくらい不遇な死をとげた人もいます。 系図を書くと次のようになります。
16✋ この子孫の祭祀を受けられなくなった霊は祟るというのは先祖崇拝にもつながります。 草壁だけならともかく、文武までこんな早死にするなんて、何かのタタリじゃないか・・・・・と考えるのが自然ではないでしょうか。
5📞 しかし崇神天皇の時代には、疫病の原因がわからず、占わせてはじめて大物主のタタリということがわかりました。 少し、不思議な気もします。 そしてもし御客座五神が出雲大社の本来の主祭神だったなら、出雲大社が天皇の御所より大きな建物だった理由がわかるのです。